スティグレールの考えるDéfaut de Communauté
スティグレールの共同性・現代社会についての考えと現在の考えが分かりやすい形で展開されている小論考があります。その概要を以下にレジュメします。2003年10月10のル・モンドに載った記事です。
なおフランス語のオリジナルは以下のところでダウンロードすることができます。
http://listes.rezo.net/archives/cip-idf/2003-10/msg00196.html
次のような構成になっています。
フランス語
日本語訳(時間をほとんどかけていないために正確でない部分もあるかもしれません)
· この印はオリジナルがわかりにくいと思う場合に、だいたいの意味として参照してもらえればという部分です。
· この印は、提示されたStieglerのテーマについてこう考えることができるというサンプルです。
De la misère symbolique(象徴の窮乏)
La question politique est une question esthétique, et réciproquement : la question esthétique est
une question politique.
政治問題は美学(美的感覚)の問題であり、その反対に美学(美的感覚)の問題は政治の問題なである。
· 政治と美学(以下では美的感覚と言い換えます。しっかり文脈をとらえるためにはその都度適訳をあてるべきですが。ともかく通常は美学とか審美と訳されている語です)は同じ問題だという命題です。その理由は、政治も芸術も他者の感情に関わる問題であるからです。
L'abandon de la pensée politique par le monde de l'art est une catastrophe.
芸術世界による政治思想の放棄はカタストロフと言える
Je veux dire que leur travail est originairement engagé dans la question de la sensibilité de l'autre.
もともと政治思想も芸術も他者の感情の問題に関わるものだ。
Le problème du politique, c'est de savoir comment être ensemble, vivre ensemble, se supporter comme ensemble à travers et depuis nos singularités (bien plus profondément encore que nos "différences") et par-delà nos conflits d'intérêts.
政治問題とは、私たちの一人一人の多様性を通して、そしてそこから出発して、どのようにすれば一緒にいることができるか、どのようにすれば一緒に生きていくことができるか、どのように支え合っていくことができるのかということを知る問題である。
· 共同性の原点にStieglerは一人一人の特異性をおきます。この問題設定は、ナンシーの共同体論(一人であり複数である)でも、デリダの「歓待の思想」や「他者の岬」に語られる「全くの他者」との出会いが作る関係でも、クレポンの文明というのは独自性というものは、他者との関係の中で作られるという思想にせよ、西洋の現代思想に共通する姿勢です。
· とりわけ、「私=私たち」としてしまうファシズム思想に対する危機感がその背後にあります。日本ではどうでしょう。「私は」と語らずに、「私たちは」と語ってしまうことが多いですね。ここの辺りで、一つ問題を設定できるような気がします。
· また特異性を前提とする社会論の対極には、「人間はみな同じだ」という発想の社会論があります。それは特異性を塗りつぶし、全く同じ人間という仮想存在を前提として作り上げる凡庸な社会論ですが、「同じ」という言葉を「平等」と言い換えると見栄えがします。「人間はみな平等だ」。欺瞞的な戦後民主主義者は、日本の滅私奉公思想を引き継ぎ、この言葉を巧みに使いました。しかし自分たちを見れば、すぐ気がつきますが、みんな「違い」ますよね。背が高かったり、太っていたり・・・そういった特異性をもった人間が「同じ権利を持つものとして結びつこう」という未来への時間ベクトルをまず骨抜きにし、それが開かれた未来に向けた永続的な関係修復の運動を表すものと思いつきもせず、それを確かな「実体」と錯覚した人の口からは、だから「―に従うべきだ」という、現在の権力関係をただ単に強化するだけの抑圧の論理が生まれてしまいます。こういった動きは、アメリカのイラク戦争の論理ですね。「みな平等だ。みな平等が作り上げる民主主義者でなければならない。民主主義者でないものは、民主主義に従うよう強制力を持つことが民主主義者には保証されているのだ」。最初の命題の間違いを正さない限り、一番原初的な抑圧の論理はいつまでも生きながらえてしまいます
· また特異な個人と社会との関係について言えば、個人がいなければ社会は存在せず、社会がなければ個人というものも生まれないという相補的な思想が、実は1960年代の構造主義によってさまざまな形で語られてきました。抽象的なレベルでは「結び」のあり方を語ったジャック・ラカン(Encore Xでの「結い」の問題)から、レヴィ・ストロースの家族論(家族―社会の相立性)といったように。ただしそれらは静態的な構造関係で、生成する構造という観点にたつものではありませんが。
La politique est l'art de garantir une unité de la cité dans son désir d'avenir commun, son individuation, sa singularité comme devenir-un. Or un tel désir suppose un fonds esthétique commun.
政治とは、共通の未来への欲求の中で、また個性化や、一つになろうとする特異性の中で、都市(シテ―必ずしも現在の都市という具体的なものを指すわけではありません。生活が組織化されている場所という意味です)の統一性を保証する技術である。ところでこういった欲求は共通の美学的な基盤を前提としている。
· 特異な人間が一つになろうというとき、そこには共通の美学がある。
· 共同性の本質は、そこにただ並立して人間が事物のように存在することでは生まれず、どのような関係がその人間の間で作られるのかという点にある。その意味では関係性そのものが共同性と言うことができる。
· その関係を紡ぐ物は、共通の美学的基盤。
L'être-ensemble est celui d'un ensemble sensible. Une communauté politique est donc la communauté d'un sentir. Si l'on n'est pas capable d'aimer ensemble les choses (paysages, villes, objets, oeuvres, langue, etc.), on ne peut pas s'aimer. Tel est le sens de la "philia" chez Aristote. Et s'aimer, c'est aimer ensemble des choses autres que soi.
共に存在するということは、感覚するみんなが共に存在するということです。ですから、ある一つの政治とは、感じることの共同体です。もし一緒に事物(風景、都市、事物、作品、言語など)を愛することができないとすれば、お互いに愛し合うことはできません。これがアリストテレスのいう「フィリア(エロスが性愛を意味するのに対して、友愛を意味する)」の意味です。そしてお互いに愛し合うとういことは、自分以外のものを共に愛することです。
· Stieglerの言う共同性は、特異な人間がお互いに共通のものを愛すること。
· ともに愛せない物(敵)というものを媒介にした共同性も存在していた(ナンシー)。
· 共同性の契機はおそらく他にもいくつかあります。
Pour autant, l'esthétique humaine a une histoire et est donc une incessante transformation du sensible.
とはいえ、人間の美的感覚(普通は美学と訳されています)は来歴をもったものであり、それゆえ絶えず感覚は変貌を続けるものです。
· 共同性を作る基盤である美的感覚は絶えず変化し続けている。実際、マネを例にとって、最初マネは受け入れられなかったが、美的感覚の戦いを経て、それが受容されていった。このように美的感覚は変化をするのだ。
ces conflits sont un processus de construction de la sympathie qui caractérise l'esthétique humaine, une créativité qui transforme le monde en vue de bâtir une nouvelle sensibilité commune,
こういった衝突(マネの感覚と伝統的な感覚の衝突)は人間の美的感覚を特徴づける共感を打ち立てるプロセスであり、新しい共通感覚を打ち立てるために世界を変えていく創造性と言いえるものです。
C'est ce que l'on peut nommer l'expérience esthétique, telle que l'art la fait
これは芸術が作る美的感覚の経験と呼ぶことができるものです
· 美的感覚の衝突を通して、新しい世界の共通感覚が打ち立てられていく。
l'ambition esthétique à cet ´gard s'est largement effondrée. Parce qu'une large part de la population est aujourd'hui privée de toute expérience esthétique, entièrement soumise qu'elle est au conditionnement esthétique en quoi consiste le marketing, qui est devenu hégémonique pour l'immense majorité de la population mondiale
こういった点からすれば、美的感覚の野望は大きく崩壊してしまいました。というのも大部分の人々は今日美的感覚の経験を奪われてしまっているからです。彼らはマーケティングによる美的感覚の操作に全面的に服従しているからです。そしてマーケティングは世界の大多数の人々にとって権威的なものになってしまったのです。
· ところが20世紀、21世紀になって、美的感覚の打ち立てられるプロセスの基盤を奪われてしまっている。それはマーケティングによる美的感覚の操作によってだ。
C'est au lendemain du 21avril 2002 que cette question m'a en quelque sorte sauté à la figure.
こういった考えに私が襲われたのは、2002年4月21日の翌日でした。
· フランスでは2002年4月21日の選挙で、ジャック・ル・ペンが率いる右翼政党国民戦線が躍進を遂げました。その具体的な現実を突きつけられて、その理由を探るうちに、「(美的)感覚(エステティック)の崩壊」という本論考にたどりついたわけです。そしてこれを思想の主軸として展開しようとしており、一連の著作として、次の巻もアナウンスされています。
Il m'est apparu que ces hommes, ces femmes, ces jeunes gens ne sentent pas ce qui se passe, et en cela ne se sentent plus appartenir à la société. Ils sont enfermés dans une zone (commerciale, industrielle, d'"aménagements" divers, voire rurale, etc.) qui n'est plus un monde, parce qu'elle a décroché esthétiquement
男も女も若者も、もはや今起きていることを感じていないかのように思えたからです。そしてそれによって、彼らはもはや社会に属していないように感じているように思えたからです。彼らはもはや世界とは言えないゾーン、商業、工業、さまざまな整備をなされた、あるいは田園といったゾーンの中に閉じこめられているのです。というのもそういったゾーンは美的感覚を切り離してしまっているからです。
· なぜ馬鹿げた排外主義を唱える(フランセ・スッシュ(由緒あるフランス人)と呼ばれているフランス人以外を無条件で差別する)国民戦線をフランス人が支持したのだろう。それは共同性を作りだす美的感覚そのものを人々は隔離ゾーンのなかに置かれることによって切り落とされてしまったからではないか。
Le 21 avril a été une catastrophe politico-esthétique.
4月21日は政治―美的感覚の破局でした。
Ces personnes qui sont en situation de grande misère symbolique exécrent le devenir de la société moderne et avant tout son esthétique - lorsqu'elle n'est pas industrielle. Car le conditionnement esthétique, qui constitue l'essentiel de l'enfermement dans les zones, vient se substituer à l'expérience esthétique pour la rendre impossible.
象徴の大規模な窮乏化という状態に置かれている人々は、現代社会の未来に激しい憎悪を抱き、なによりも-美的感覚が産業的なものでない場合には-美的感覚そのものに憎悪を抱くのです。というのもゾーンへの封じ込めに必要不可欠なものとなっている美的感覚の操作が、美的感覚の経験に置き換わり、美的感覚をありえない物としてしまっているからです。
· 象徴を作り出す力(自分が実際に触れ、感じ、愛着を生み出す力)を衰弱させた人々は、自分が作り出していると錯覚している美的感覚(実際にはメディアによって作り出され、操作された知覚)によって、共同性に向かう本来の美的感覚を抹殺しようとしている。
Il faut savoir que l'art contemporain, la musique contemporaine, les intermittents du spectacle, la littérature contemporaine, la philosophie contemporaine et la science contemporaine font souffrir le ghetto que forment ces zones.
現代芸術、現代音楽、ショーの断続、現代文学、現代哲学、そして現代の学問は、こういったゾーンが形成するゲットーを苦しませていることを知らなければならない。
· それに対して現代の諸学は手を拱いているだけだ。
Cette misère n'affecte pas simplement les classes sociales pauvres :
le réseau télévisuel, en particulier, trame comme une lèpre de telles zones partout,
この困窮はただ単に貧困社会階級に影響を及ぼすだけではない。とりわけテレビネットワークは、至る所にらい病のようにこういったゾーンを紡ぎ出している。
· 困窮というこの言葉は、何も社会的な貧困層に向けて使われているわけではなく、実際には現代社会の中に蔓延している状態を指しているのだ。
Il ne faut pas croire que les nouveaux misérables sont d'abominables barbares. Ils sont le coeur même de la sociét´ des consommateurs. Ils sont la "civilisation". Mais telle que, paradoxalement, son coeur est devenu un ghetto. Or ce ghetto est humilié, offensé par ce devenir. Nous, les gens réputés cultivés, savants, artistes, philosophes, clairvoyants et informés, il faut que nous nous rendions compte que l'immense majorité de la société vit dans cette misère symbolique faite d'humiliation et d'offense.
新しい困窮は忌まわしい野蛮であると思いこむべきではない。新しい困窮は消費者社会の核心でさえあるのだ。新しい困窮は「文明」なのだ。しかし文明と言っても、パラドクスに満ちているが、その中心がゲットーになってしまった「文明」なのだ。ところでこのゲットーは、その変転によって卑しめられ、攻撃されている。文化人であるという評判の私たち、知識人、芸術家、哲学者、賢者、事情通である私たちは、恥辱と攻撃で作られている象徴の困窮のなかで社会の大部分の人が生きていることを考える必要があるのだ。
· アントニオ・ネグリが、文化の問題を全面的に取り上げ始めているのと同じ流れを読みとることができる。これは1960年代の、「文学の革命」を唱えたテル・ケルとは全く異質の意味を持っている。その意味の違いは、おそらくグローバリズムという現代の社会に投げ込まれている私たちは、すでに作られた意味が生活の場を全面的に占拠している中で生きているからだ。60年代と違って、わたしたちにはもはや外部はない。生産手段から疎外されていた60年代とは違い、生活の基盤から疎外されているのが現代だ。水は川や井戸から飲むことはできない。冷暖房がなければ密閉した都市住居のなかでは生活できない。太陽を中心とする生活を続けていると仕事ができない。
Tels sont les ravages que produit la guerre esthétique qu'est devenu le règne hégémonique du marché. L'immense majorité de la société vit dans des zones esthétiquement sinistrées où l'on ne peut pas vivre et s'aimer parce qu'on y est esthétiquement aliéné.
これが市場の覇権支配から生まれた美的感覚戦争が生み出した災禍である。社会の大部分はこの美的感覚の面で災害に見舞われたゾーンの中で生きている。そこでは美的感覚の面で疎外されているが故に、生きることも愛し合うこともできない。
· 生きる、愛するという行為は、自分という固有の存在が対象と作り出すアウラをともなった固有の関係である。しかし、私というものがマーケティングやマス・メディアによって規格化された場合、どのような関係が生まれるだろう。そこで生まれるのは一様な美的感覚だろう。私もあなたも全く同じ美的感覚という。
Au XXe siècle, une esthétique nouvelle s'est mise en place, fonctionnalisant la dimension affective et esthétique de l'individu pour en faire un consommateur.
20世紀に新しい美的感覚が設定され、個人の愛着や美的感覚といった次元を機能化することによって消費者を作り出した。
· 「エルメスは素晴らしい」という感覚は、ほんとうのところ、何を素晴らしいと言っているのだろうか。デザイン? 機能? ステータス? 周りの人の評判 ? それは自分に固有の感覚からでたものだろうか? それともメタ・ランガージュとして作り上げられた意味を、あるいはコノタシオンとして作られた意味を言わされ、消費しているだけなのだろうか?
Il y eut d'autres fonctionnalisations : certaines eurent pour but d'en faire un croyant, d'autres un admirateur du pouvoir, d'autres encore un libre-penseur explorant l'illimité qui résonne dans son corps à la rencontre sensible du monde et du devenir.
かつては別の機能化が存在していた。あるものはそれを信仰の対象とすることを目的とし、あるものはそれを権力の賛美に仕立て上げることを目的とし、またあるものは世界と未来を感じ取ることのできる出会いを通して肉体の中で響く無限を探索する自由思想家となることを目的としていた。
· 消費者として以外にも機能化の形はあった。
Il ne s'agit pas de condamner, bien loin de là, le destin industriel et technologique de l'humanité. Il s'agit en revanche de réinventer ce destin et, pour cela, d'acquérir une compréhension de la situation qui a conduit au conditionnement esthétique et qui, si elle n'est pas surmontée, conduira à la ruine de la consommation elle-même et au dégoût généralisé.
人間の産業・技術の運命を断罪することが問題となる訳ではない。いやそれとは反対に重要なのはその運命を作り直すことだ。そしてそのためには美的感覚の操作を導き出した状況を理解することが重要なのです。そしてそれを乗り越えることができなければ、消費そのものの破壊に向かい、嫌悪感が蔓延するようになるだろう。
· 簡単なのは、技術が間違いをもたらしたという技術批判だ。しかし人間は肉体を道具として使い、自然との関係を作り出すことによって人間でありえた。プロメテウス(人間に火を与え)とエピテメウス(うっかりもので物忘れの激しい彼は、さまざまな動物に生きていくための道具を与えたのに、人間だけは忘れてしまい、丸裸のまま世界においた)という二重の過ちから生まれた人間は、技術というものによって生きることができる存在(ホモ・ファーベル)なのだ。自分以外のもの、つまり技術という外部のものと結びつく存在は人間の特性であり、同時にそれは外部のものと結びつくことから生まれること、つまり欠損(défaut)による共同性(communauté)の契機となるものでもある。その意味では、技術の行き先を再構成することが必要なのだ。
On distingue au moins deux esthétiques, celle des psycho-physiologues, qui étudie les organes des sens, et celle de l'histoire de l'art, des formes artéfactuelles, symboles et oeuvres.
少なくとも二つの美的感覚を区別できる。感覚器官を研究する心理―生理的な美的感覚と芸術史、人間が作りだした人工形態、象徴、作品といった美的感覚だ。
· 共同性を作りだす美的感覚は、もともと少なくとも生理機構と象徴といった人工機構の二つの要素から成り立つ。
Alors que l'esthétique psycho-physiologique apparaît stable,
心理―生理的な美的感覚は安定しているように思える。
l'esthétique des artefacts ne cesse d'évoluer à travers le temps.
(しかし)人間が作り出した美的感覚は時間とともに絶えず変化をとげている。
· しかし人為が作り出す美的感覚は時間と共に変化する
Or la stabilité des organes des sens est une illusion en ce qu'ils sont soumis à un processus incessant de défonctionnalisations et refonctionnalisations, précisément lié à l'évolution des artefacts.
ところで感覚器官の安定性というのは幻想に過ぎない。さまざまな器官は機能化と再機能化の絶えざるプロセスに属しているからだ。正確に言えば、人工的な生成物の進化と結び付いたプロセスに属しているからだ。
· 感覚器官が働く場も実は変化している
L'histoire esthétique de l'humanité consiste en une série de désajustements successifs entre trois grandes organisations qui forment la puissance esthétique de l'homme :
人間の美的感覚は、人間の美的感覚の力を構成する三つの大きな組織の間での一連の脱調整化に依存している。
son corps avec son organisation physiologique, ses organes artificiels (techniques, objets, outils, instruments, oeuvres d'art), et ses organisations sociales résultant de l'articulation des artefacts et des corps.
生理的な組織と肉体との関係、そして(技術、事物、用具、道具、芸術作品)といった人工的な組織器官と肉体との関係、そして人造物や肉体の分節化により生まれる社会的な諸組織。
Il faut imaginer une organologie générale qui étudierait l'histoire conjointe de ces trois dimensions de l'esthétique humaine et des tensions, inventions et potentiels qui en résultent.
人間の美的感覚のこういった3つの次元、そしてそこから生まれる緊張と創発性と潜在力を結び付ける歴史を研究する一般組織学というものを構想すべきではないだろうか。
· そういった生理・技術と生理、社会といった3つのベクトルが作り出す美的感覚を研究する一般組織学というものを考えることはできないか。
Seule une telle approche génétique permet de comprendre l'évolution esth´tique qui conduit à la misère symbolique contemporaine
こういった生成的なアプローチによってのみ、現代の象徴の貧困をもたらしている美的感覚の進展を理解することができるでしょう。
· 生成的なアプローチ
il faut bien sûr l'espèrer et l'affirmer, une force nouvelle doit se cacher, aussi bien dans l'immense ouverture de possibles que portent la science et la technologie que dans l'affect de la souffrance elle-même.
それを望み、それを断言しなければならないでしょう。新しい力が隠れているはずなのです。科学と技術がもたらす可能性の大きな入り口の中に、そして苦しみという情動そのものの中に。
Que s'est-il passé au XXe siècle quant à l'affect Au cours des années 1940, pour absorber une surproduction de biens dont personne n'a besoin, l'industrie américaine met en oeuvre des techniques de marketing (imaginées des les années 1930 par Edward Barnay, un neveu de Freud) qui ne cesseront de s'intensifier durant le XXe siècle, la plus-value de l'investissement se faisant sur les économies d'échelle nécessitant des marchés de masse toujours plus vastes.
いったい20世紀に情動に関して何が起きたのだろう。1940年代に人々が必要とはしない財の過剰生産を吸収するために、アメリカの産業はマーケティング技術(フロイトの甥のエドワード・バーネイが1930年から考えていたものだ)を発展させ、それは20世紀の間絶えず強化されてきた。そして投資の剰余価値は、拡大し続けるマス市場を必要とする規模の経済によってもたらされてきた。
· 具体的にどのようにマーケティングによって人間の情動が管理され、美的感覚を奪われていったのか。
Pour gagner ces marchés de masse, l'industrie développe une esthétique où elle utilise en particulier les médias audiovisuels.
このマス市場を勝ち取るために、産業は美的感覚を開発し、とりわけ視聴覚メディアを利用した。
· マス・メディアの利用
· サブリミナル
· 映像は誰から見ても同じ映像。実物であれば見る角度によって見える物の姿が変わる。裏側から見れば全く違った世界が生まれる。美的感覚が生まれる対象そのものがすでに画一化されている。
Il en résulte une misère symbolique qui est aussi une misère libidinale et affective, et qui conduit à la perte de ce que j'appelle le narcissisme primordial :
その結果、象徴の貧困が起こった。それは同時にリビドーや愛着といったものの貧困ともいえるものだ。そして私が「原初的ナルシシスム」と呼ぶものの崩壊を引き起こしているのはこの象徴の貧困なのだ。
· 「原初的ナルシシスム」というものを、スティグレールはラカンの「鏡像段階」のようなものとして捉えています。鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の間に、鏡を通してそこに映る自分や他人の姿を通して一体化していた母親から離れ自己を確立する時期を指します。自分が動くと、鏡の中の自分も動きます。鏡の中の自分は自分の意志的な動きと連動しているように見えます。しかし他人の動きは、自分の動きや意図とは違う動きをします。それは自己というものの発見になるわけです。
· スティグレールは、後から出てくるRichard Durnというナンテールの連続殺人者に、この「原初的ナルシシスム」の崩壊がその犯罪を引き起こしていると考えます。Richardは鏡に自分の姿を見ようとするのですが、それが見えないというのです。つまり自分というものを愛しようにも、自分を見えない、自分がいないという人物なのです。自分を愛せないこと。それでは他人を愛しようもありません。
· ところで自分を愛することは、自分の固有性を認めることです。しかし自分を形作っていく環境世界がメディアによって作られた全く均質なものであれば、自分の固有性は見つけようがありません。それだけではなく、環境世界との間で自己という情報を作り出す「いわゆる私―自己」も、すでにマス・メディアによって感覚を均質化されているのです。これはまさに固有の自己というものを失ったRichardとおなじ状態に私たち現代の人は陥っているのではないかということです。
· そして、そういったものの延長線上に国民戦線の躍進があったのではないかということです。
les individus sont privés de leur capacité d'attachement esthétique à des singularités, à des objets singuliers.
一人一人が、特異性や特異な物へ向かう自分たち固有の美的感覚の愛着能力を奪われているのだ。
Locke comprit au XVIIe siècle que je suis singulier à travers la singularité des objets avec lesquels je suis en relation.
ロックは17世紀に、私が関係を持つ事物の特異性を通して私は特異な存在であるということを理解していた。
Je suis le rapport à mes objets en tant qu'il est singulier. Or le rapport aux objets industriels, qui par ailleurs se standardisent, est désormais standardisé et catégorisé en particularismes qui constituent pour le marketing des segments de marché
私というものは、自分の事物との関係である。ただしその関係が特異な物である限りにおいての話だが。ところで、すでに規格化されている工業的な事物との関係は、マーケティングのために市場の部分を構成している個人主義に基づき、すでに規格化され、カテゴリー化されているのだ。
Mon passé étant de moins en moins différent de celui des autres parce que mon passé se constitue de plus en plus dans les images et les sons que les médias déversent dans ma conscience, mais aussi dans les objets et les rapports aux objets que ces images me conduisent à consommer, il perd sa singularité, c'est-à-dire que je me perds comme singularité.
私の過去はだんだん他者の過去とは違いのない物になっていく。というのも、私の過去は、メディアが私の意識に注ぎ込むイメージや音によって構成されるようになっているからだ。そしてそれだけにはとどまらず、同時に、それらのイメージが消費するように私を導く事物や事物との関係そのものにも、メディアはイメージや音を注ぎ込んでいるのだ。
Dès lors que je n'ai plus de singularité, je ne m'aime plus : on ne peut s'aimer soi-même qu'à partir du savoir intime que l'on a de sa propre singularité. Si notre singularité est détruite, notre amour de nous-même est détruit.
私はもはや特異性を持っていないとなると、もはや私は自分を愛することができない。人が自分を愛することができるのは、自分が固有の特異性を持っているという心の底にある知識から始まるのだ。
Quant à l'art, il est l'expérience et le soutien de cette singularité sensible comme invitation à l'activité symbolique, à la production et à la rencontre de traces dans le temps collectif.
芸術について言えば、それは象徴活動への誘い、生産への誘い、そして共同時間のなかでの痕跡との出会いへの誘いとしてはっきりと感じられる特異性の経験であり、その特異性を支持するものだ。
L'amour propre que rend possible la singularité de l'individu, et que, dans la psychanalyse, on appelle le narcissisme, est la condition de l'amour des autres.
個人の特異性を可能にする自己愛、そして精神分析ではナルシシスムと呼ぶ自己愛、それは他者への愛の前提条件だ。
Si je ne m'aime pas moi-même, je ne peux aimer les autres. C'est pourquoi le tueur de Nanterre, Richard Durn, est un exemple de ce vers quoi nous allons : un exemple du genre de passages à l'acte à quoi conduit la misère symbolique,
anticipant cet autre passage à l'acte que fut le 21 avril 2002.
もし自分自身を愛さなければ、他者を愛することはできないだろう。だからナンテールの殺人者Richard Durnは私たちが向かっているものの一つの例なのだ。象徴の貧困がもたらす実際の行為の一例なのだ。そしてそれは2002年4月21日の現実化を先取りするものであった。
Voilà en quoi la question esthétique et la question politique n'en font qu'une.
これがどういった点で美的感覚と政治における問題は一つであるのかという理由である。