ラバ・アムール=ザイメッシュ

ファイーザ・ゲンヌ

マージュ

『ウェシュ・ウェシュ、一体どうしたの?』 シノプシス
ボスケ集合住宅(シテ)、セーヌ・サン・ドゥニ県
二重の刑(投獄、追放)に服した後、集合住宅(シテ)へ戻って来たカメルの視点を通して、地域の社会的退廃に直面している成人青年たちの生活を描く。

この映画の中の社会関係について話してもらえますか?

ラバ:カメラを集合住宅(シテ)の外側、つまり階段の手すりの位置に設置しました。階段の手すりというのは、特別に男性的な世界であり、男どもの領域として彼らの姉妹たちからは遠ざけられています。だからこそ、女の子たちは学校で成功するのです。何故なら彼女たちは室内空間に閉じ込められており、そこから抜け出す唯一の手段が学校に通いそこで市民権を獲得することである、と十分に意識しているからなのです。対して、男子はと言えば、他のことに巻き込まれています。女の子たちは男子と同じ文化には属していません。映画の中で、父親は自分の出身国で家を買うことを決心し、貯蓄のほとんどを北アフリカ内陸部の片田舎につぎ込んでしまい、彼らは集合住宅(シテ)の巨大な人々の群の中で身動きが取れなくなってしまいます。何故なら帰郷という神話は父親たちによって伝えられたものだからです。彼らは間違った投資をしたことになり、貯蓄は幽霊しか住まない家のために消えてしまい、彼らは幻滅し、現実から取り残され、彼らの息子たちは父親たちのようにはなりたくないと思うようになるのです。マリファナによる闇経済によって、多くの人々が糊口を凌ぎます。成人青年たちは突っ走り、自分たち自身の経済活動を立ち上げます。売春したり、工事現場でしがない労働者になるよりましというわけです。また、人々が生きる社会では自分自身の存在を感じるために、そして自分が主人であると思い込むための正当な根拠を得るために人は常に自分より弱いものを必要とする、という発想もこの映画にはあります。人々が生きる社会で確立する人間関係を非常に象徴的に採上げているのです。支配し支配される関係から人は逃れることができません。私自身もまだ自由ではないと考えています。。。

夜の集合住宅(シテ)の映像の美しさに心打たれます。それは昼のシーンで全体的に見られる荒廃した雰囲気と極めて対照的です。

昼は集合住宅(シテ)の生のままの現実が露呈しています。そこは見捨てられている場所ですが、というのも住人たちは完全に責任感を失ってしまっているからです。すべて上から押し付けられます。これらの地区が構想された時、地域の委員会、つまり人々が日常生活のことを話し合い決定する会議の場を建設することがなおざりにされました。民主主義は階段の手すりのレヴェルには存在しないのです。
しかし、夜になると集合住宅(シテ)は、夢を満載した船のように光を灯され、人々を前に進ませる夢々のように、輝きだします。この地域の人々は思考停止していると思われることがよくありますが、彼らは豊かさを持ち合わせており、類稀なる文化的貢献をフランス社会にもたらしているのです。こういった側面を夜のシーンの撮影によって、前面に押し出したかったのです。出身国の文化とフランス文化の間の交配から郊外に産まれた新しい都市文化は次第に重要な位置を占めるようになってきました。例えば、ラップ、ヒップホップ、ダンスや、私の映画などもそうでしょう。やがて、政治に関する真っ当な発言もそこに付け加わるようなることを私は期待しています。

この映画を通じて何か伝えたいメッセージなどあるでしょうか。もしあおりなら、それはどのようなものでしょう?

民衆の地域においてもポエジーが生活を満たすこと、そして人々が自分自身の力でエネルギーを引き出し、心の道の方角へ向かう何かを作り上げるようになれること、です。最低の状態から抜け出すための最良の方法とは、心の道を辿ることです。私は集合住宅(シテ)がゲットーだとは思いません。そこは民衆の地域であり、民衆の集合住宅(シテ)なのです。
Rabah AIMEUR-ZAIMECHE
 ラバ・アムール=ザイメッシュは、『ウェシュ・ウェシュ、一体どうしたの?』という映画を撮りました。シナリオを書き、監督をし、自ら出演したこの作品で、2001年にベルリン国際映画祭とベルフォート国際映画祭で受賞をしています。彼は今アルジェリアで、撮影を終えた第二作目の長編映画の編集作業をしているところです。彼はまた、文化人類学者でもあります。
Faiza GUENE
 20歳のファイーザ・ゲンヌは、都市の若者の日記作品『明日はきっとうまくいく』(2004年、アシェット社)の作者であり、この本は世界中のベストセラーになりました。日本では早川書房が、今回のテレビ会議に合わせて、3月22日に出版する予定です。彼女はまた何本かの短編と『言葉だけね』という中編映画も撮っています。
MADJ  (Madjid "Madj" Benaroudj)
  メートル・マージ師は、グループ『アササン』を中核に作られたフランス最初のヒップ・ポップ独立レーベル「アササン・プロダクション(暗殺プロダクション)」の共同創立者、イデオローグ。アササン・プロダクションはすでに20枚ほどのディスクを出している。とりわけ、フランスのラップ史に燦然と輝く『アササン』のディスコグラフィーのほとんど全ては、このプロダクションが手がけたもの。

2002-3年
マージュ:私は音楽一般、言ってしまえば、良い音楽が大好きであり、チャペルの外に身を置いています。様々な文化活動があり、そのそれぞれにそれぞれの歴史がありますが、そのすべてが都市のカウンター・カルチャーを形作っている、と思います。私はもちろん、私が「時代の証言」と呼んでいる音楽に特に関心があります。何故なら、様々な社会参加の段階があるからであり、政治的話題に関する様々な段階の表現があるからです。つまり私は、その音楽が出現した社会とともに歩んでいる音楽に興味があるのです。つまり、私は所謂社会参加している音楽をたくさん聞いているのであり、そのようなものしか聞きません。

謙虚な人々というのはある種の尊厳を持ち合わせており、この尊厳とは私にとっては、民衆が身を置く環境、民衆文化、つまりヒップホップの本質の一部をなしています。この文化が否定的なことから肯定的なエネルギーを産み出すことによって成り立っていると言われることがありますが、全くその通りです。フランスのラップの担い手の多くは尊厳が存在するということを忘れてしまっています。それが無ければ、決して目にすることも耳にすることもなかったであろうようなたくさんのこと、そして生涯立ち会うことがなかったであろうような活動が現に存在するのです。

現在、ヴェールの話題が盛んに行われていますが。

これは間違った問題です。特定の言い方ではマグレブ出身の人々に、より一般的な言い方では民衆の地域、貧民や郊外に住む人々に悪者の烙印を押す更なる方法論に他なりません。このようなやり方は無害でない筈がありませんノ同じような事例として、「新たなる反ユダヤ主義者」のことを語ることも出来るでしょう。フランスの若いアラブ人たちが反ユダヤ主義を作り出したというようなことが信じられているのですノ大統領選の前に起こった治安の悪化や犯罪の増加に関する取り違いや混同の類もすべて同じような現象なのですノこれらの混乱は私にしてみればすべて同じことです。私自身も室内ではマフラーを身につけます。今現在の私の学校におけるヴェールに関するより正確な立場は以下の通りです。宗教の選択が、それがどんなに些細なことであれ、教育の内容に踏み込まず、それを尊重している限りにおいては、私にはどこに問題があるのか分かりません。私にとって、政教分離(ライシテ)とは、教育の内容や教育のやり方が何らかの宗教の影響を絶対に受けてはいけない、ということを意味します。それこそが政教分離(ライシテ)なのです。諸宗教間の平等を目指すということでもなければ、宗教をまったくないものとして考えるということでもないのです。マフラーは女の子の個人的な選択だとすれば、それが宗教的なものだとしても、純粋にファッションの問題だとしても、それはあくまでも彼女の選択なのです。その選択が教育の領域において特別な免除だとか許可を必要とするということにならない以上は、私は全く問題が無いと思います。逆のケースであれば、問題です。つまり政教分離(ライシテ)の本質的な基礎部分に立ち戻れば良いのです。それを越えた場合には、だめ、ということになります。女学生がマフラーを身につけるのは、政教分離(ライシテ)に対する攻撃でも何でもありません。

フランスのラップの歴史の中であなたにとっての代表作を教えて下さい。

フランスのラップには様々な流派があります。当時、私たちは精力的に活動しました。田舎に住む多くの男どもはロカを真似てラップをしたものです。93年から94年にかけてはLes Sages Poetes de la Rue(街の詩人賢者)が同じように憧れの的でした。その後、Dee Nastyのような人がこの音楽シーンを発展させるために果たした業績は無視できません。私自身がこれにのめり込んでいったのは早い時期からではありませんでした。1986年から興味を持ち始め、1988年から1989年にかけて真剣にそれにのめり込んでいったのです。Dee Nastyが私に非常に強烈な衝撃を与えました。私は彼がGloboの不法占拠された会場でミキシングしているのを見ましたノ彼はまだ彼の実績に値するに十分な評価を受けているとは必ずしも言えません。しかし、それも歴史の一部なのでしょう。

quelques references:
la censure
letatassassine