2002-3年
マージュ:私は音楽一般、言ってしまえば、良い音楽が大好きであり、チャペルの外に身を置いています。様々な文化活動があり、そのそれぞれにそれぞれの歴史がありますが、そのすべてが都市のカウンター・カルチャーを形作っている、と思います。私はもちろん、私が「時代の証言」と呼んでいる音楽に特に関心があります。何故なら、様々な社会参加の段階があるからであり、政治的話題に関する様々な段階の表現があるからです。つまり私は、その音楽が出現した社会とともに歩んでいる音楽に興味があるのです。つまり、私は所謂社会参加している音楽をたくさん聞いているのであり、そのようなものしか聞きません。
謙虚な人々というのはある種の尊厳を持ち合わせており、この尊厳とは私にとっては、民衆が身を置く環境、民衆文化、つまりヒップホップの本質の一部をなしています。この文化が否定的なことから肯定的なエネルギーを産み出すことによって成り立っていると言われることがありますが、全くその通りです。フランスのラップの担い手の多くは尊厳が存在するということを忘れてしまっています。それが無ければ、決して目にすることも耳にすることもなかったであろうようなたくさんのこと、そして生涯立ち会うことがなかったであろうような活動が現に存在するのです。
現在、ヴェールの話題が盛んに行われていますが。
これは間違った問題です。特定の言い方ではマグレブ出身の人々に、より一般的な言い方では民衆の地域、貧民や郊外に住む人々に悪者の烙印を押す更なる方法論に他なりません。このようなやり方は無害でない筈がありませんノ同じような事例として、「新たなる反ユダヤ主義者」のことを語ることも出来るでしょう。フランスの若いアラブ人たちが反ユダヤ主義を作り出したというようなことが信じられているのですノ大統領選の前に起こった治安の悪化や犯罪の増加に関する取り違いや混同の類もすべて同じような現象なのですノこれらの混乱は私にしてみればすべて同じことです。私自身も室内ではマフラーを身につけます。今現在の私の学校におけるヴェールに関するより正確な立場は以下の通りです。宗教の選択が、それがどんなに些細なことであれ、教育の内容に踏み込まず、それを尊重している限りにおいては、私にはどこに問題があるのか分かりません。私にとって、政教分離(ライシテ)とは、教育の内容や教育のやり方が何らかの宗教の影響を絶対に受けてはいけない、ということを意味します。それこそが政教分離(ライシテ)なのです。諸宗教間の平等を目指すということでもなければ、宗教をまったくないものとして考えるということでもないのです。マフラーは女の子の個人的な選択だとすれば、それが宗教的なものだとしても、純粋にファッションの問題だとしても、それはあくまでも彼女の選択なのです。その選択が教育の領域において特別な免除だとか許可を必要とするということにならない以上は、私は全く問題が無いと思います。逆のケースであれば、問題です。つまり政教分離(ライシテ)の本質的な基礎部分に立ち戻れば良いのです。それを越えた場合には、だめ、ということになります。女学生がマフラーを身につけるのは、政教分離(ライシテ)に対する攻撃でも何でもありません。
フランスのラップの歴史の中であなたにとっての代表作を教えて下さい。
フランスのラップには様々な流派があります。当時、私たちは精力的に活動しました。田舎に住む多くの男どもはロカを真似てラップをしたものです。93年から94年にかけてはLes
Sages Poetes de la Rue(街の詩人賢者)が同じように憧れの的でした。その後、Dee Nastyのような人がこの音楽シーンを発展させるために果たした業績は無視できません。私自身がこれにのめり込んでいったのは早い時期からではありませんでした。1986年から興味を持ち始め、1988年から1989年にかけて真剣にそれにのめり込んでいったのです。Dee
Nastyが私に非常に強烈な衝撃を与えました。私は彼がGloboの不法占拠された会場でミキシングしているのを見ましたノ彼はまだ彼の実績に値するに十分な評価を受けているとは必ずしも言えません。しかし、それも歴史の一部なのでしょう。
quelques references:
la
censure
letatassassine