いま私たちには(言い換えれば、私たち一人一人に)緊急事態が起きていると考える必要がある。今私たちに起きていること、それは技術装置の増大であり、それによって「個人」は消費者に変えられ―言い換えるなら個人の「精神」が自由に操られ―実際に個人が個人的特性を持てないようになっているのだ。そして共有された欲望として私たちの欲望がコントロールされることを通して、実際には、あらゆる欲望と欲望の共有が、その可能性そのものの段階で破壊されている。
だからといって現在の事態が、必然的に諦念や放棄や落胆といったものを生みだすことにはならない。現在の事態は不可逆的なものではないし、決定的なものでもない。それゆえ現状を描出することは、すでに芸術、技術、科学が動員されている戦争の目的とその戦争に賭けられているものが精神であることを明確にすることに他ならない。
ところでこの戦争は、「精神の地政学」と呼ぶべきものと切り離すことができない。もちろん「地政学」という概念を新しい形で考えるという留保がつくが。精神の地政学という考えは、実際に「特性」、「特質」などとして広がる「国民精神」の特定と同定化意味する「精神の地理学」の延長線上に存在するものではない。それゆえいかなる意味でも、「ドイツ精神」や「フランス精神」、あるいは同じように不確かな「ヨーロッパ精神」「アメリカ精神」といったものが存在しえるという考え方に正当性を付与することを意味するものではない。それどころか、こういった出来合いのものへの帰属、そして幻想(言語、伝統、遺産の占有という幻想)に取り憑かれたものへの帰属に折り返すことは、ここでいう「精神の戦争」が引き起こす、あるいは精神にとっての、もっとも恐るべき敵対的な効果の一つとして理解されねばならない。こうして帰属、アイデンティティー、特性についての理解は、紛争の争点として、また同時に特権的な目的として立ち現れており、戦争学はそれについての研究を必要としている。
精神の地政学は、それ以上に次のようなこと明らかにしている。心理学あるいは「文化的」(一般に文化的アイデンティティーの問題に与える意味での)要因によってではなく、基本的には政治的要因によって、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、そしておそらく中国、日本といった国々は、こうして精神の戦争の受益受取人となっているのだ。言い換えれば、それぞれの国の将来がその責務によって決まるという意味で、それらの国々の責務はこの戦争に関わっているのだ。
この責務を描くことは、戦争学の記述次元と戦争学の編成次元との間での密接な繋がりを作り上げることになる。それはこの責務が何をもとに成立しているのか、どのような目標を自らのとすべきなのか、そしてどのようにあらゆる「帰属」を超えてそれらの目標を共有することができるのかといったことを言わなければならないだろう。
こうして、「精神地政学」は、いくつかの研究目標を呼び起こす。
1. 欲望の精神、あるいは「精神」の欲望
産業の変貌により生み出された精神の「象徴の貧困」と、それに代わる精神の政治の必要性。
2. 帰属の問題
精神の戦争の中で、帰属、アイデンティティー、特性、占有(あるいは非占有)といった問題は、決定的な掛け金である。精神の政治の中で、どんな特性、どんな帰属(どんな愛着)、どんな占有が問題となるのか? 人は何に執着するのか? なにが維持し続けるべきものなのか?
3. 体制の現状
精神の戦争は、疑いなく掛け金の一つとなっている体制(政治、文化、メディア)の方向付けやコントロールと不可分に結びついている。これは体制の当事者そのものを作業に関わりを持たせることができるということを前提としている。すなわち、彼らを総動員することを前提としている。
4. ヨーロッパ、翻訳空間
固有語の創造―言い換えれば新しい心理的、集団的個性形成化の創造―を奨励し、それに都合のよい措置を作りだす開かれた空間として、ヨーロッパの責任を考えることが重要だ。これはヨーロッパの体制当事者との共同イベント組織を想定することができるでしょう。手始めに、まずヨーロッパ議会から。
5. ヨーロッパの他者性
こういったことを始めることは、ヨーロッパはそれを構成している関係の網目の中でしか理解することができないし、同時に、固有の他者性をもつものたちとの関係、言い換えるなら、他の世界(アメリカ合衆国や日本)との関係の中でしか理解できないことを意味している。この関係の理解(また同時に組織)は、精神の戦争の主要な掛け金となる。これは、現実理解の枠組みの中では、アメリカ合衆国、中国、日本との対話を想定している。