「教育の可能性に関する原則」というのがあり、それによれば、人間に絶望してはならないし、彼等がそれに向いていないという口実で知識の場から生徒を排除してはならないのです。」

私は1969年にフランス語と哲学の教師として教えることをはじめました。当時の私は他のたくさんの人たちと同じように、頑なに「世の中を変え」なければならないと、そして「ブルジョア社会」の個人主義的な出世欲ではなく、友愛や連帯感を大切にしみんなで手をたずさえ歩むことによって、「新しい世の中」を可能にせしめなければならない、と信じていました。座についている権力に追従することを疑問視し、そのためには権力の重大な根幹の一つである教育に手をつけなければならないという確信を持っていました。また社会の大半は硬直していて、その理由はと言えば、学校が若者を権力保持者に対して従順にするという密かな目的を目指して尽力しているからだと思っていました。

この時代に『サマーヒルの自由な子供達』とイヴァン・イリイチの『学校なき社会』が発見されるのです。これらの本は「極左」の闘争の理論的背景となりました。

それから70年代の始め、私達は時宜を得て当時の大臣、ジョゼフ・フォンタネからある権限を与えられました。つまり中等教育において就学時間の10%を社会教育的、文化的、複専門分野的な活動に当てることができるようになったのです。

私達はすぐに、このような絶対自由主義者達がとびとびに獲得した教育の現場においては、最終的にはもっとも恵まれたもののみが成功へのカギを掴むことができる、ということに気付きました。例えば、既に語学を身につけている子供達や好ましい家庭的、社会文化的環境で育った子供達のことです。

この間、ややあっけに取られていた他の子供達は、道の脇のほうに追いやられていました。そして純粋培養教育は厳格な選別システムに従って機能し続けていたのです。

70年代の終わりに180度の方向転換がありました。私達は当時「目標別教育」と呼ばれていたもので我慢することにしたのです。革命を起こすというよりはむしろ、私達はなるべく多くの生徒に世に認められている知識を正確に伝授することを選んだのです。

私達はこうして学校革命に関して、あっと言う間に、ロマンチックな考えから学術的な考えに移っていきました。それはマルクス的で破壊的な教育法から必要最小限を伝える道具としての教育法への移行でありました。


細分化された教育法(la pedagogie differencie)

生徒達の人格に合った教育メソッドを「採用」しなければならないという考えは、実際のところ、新しい考えでも一義的な考えでもありません。1905年以 降、ミス・パークハストは、アメリカのダルトン校で、カードによる教育を行いましたが、これは初歩的なテストから始めて生徒のレヴェルを計り出発点を示しからそれぞれ自分のリズムで進んでいくというものです。1922年、ウォ シュバーンはイギリスでこの「ダントンプラン」の方針を取り入れました。
1927年、ドトゥロンはジュネーヴでメル校を開き、そこで個人カードのメソッ ドに集団活動の時間を組み入れた補完的なやり方を行いました。1933年、アン リ・ブシェはフランスで『教育の個別化』を出版しましたが、この著作は大成 功をおさめ、何度も版を重ねたのです。しかし、80年代から中学校のクラスに バラバラで様々な生徒が集まるようになって、「細分化された教育法」が発展 したのです。

1989年、私はピエール・ブルデューとフランソワ・グロに託された学校を検討 するという任務から立ち上げられた学術委員会の代表に任じられました。こう して私はやがてバンセル委員会に参加することになり、教師教育大学センター (IUFM)を創設することを任されました。

教師を養成するにあたって私に課せられた仕事とは、教師達が教室で様々な困 難に対応できるよう、バラバラで様々な生徒達と向き合うことができるよう、 そして真理の探究が意見の対立や力関係に優先される空間と時間において教師 達に託された文化・教養を生徒に伝える術を身につけるべく仕向けていくこと にあると確信しています。だから、元来的に教育法に捧げられた文化があると 思うのですが、それはたいていの場合、人文科学の名の下に、哲学や懲罰的な 教育術から遠ざけられてきたのです。ペスタロッチからマカレンコ、ドン・ボスコからポリン・ケルゴマール、ポール・ロビンからヤヌシュ・コルチャックやフェルナン・ウリにいたるまで、「歴史的な教育者達」が、私たちに先んじて、教えようがないと言われている子供達を受け入れてきたのです。

フィリップ・メリュー、「La Machine-Ecole」2001年
黒木朋興、翻訳

経歴
フィリップ・メリューは1949年11月29日アレスに生まれる。小学校、中学校、高校で教師を勤めたのち、現在は大学にて教育科学を講じ、リヨン学区における教師養成大学センター所長をつとめている。

メリューはモデル校における諸活動の一環として斬新な教育学的システムを実行にうつした。それは、生徒たちが彼らの教師や教育を選択することができるというものである。そこで彼は、「分化した教育法」の仮説の正当性を裏付けたわけだが、その教育法とは学習過程を複数化し、生徒たちが自分に適した教育を受けられるようにすることによって、全員が合格点に達することを目指すものである。

彼は他にも様々な活動や仕事に携わってきたが、中でも1980年から1986年まで『カイエ・ペダゴジック(教育研究ノート)』の編集長をつとめたり、教師を養成する仕事をした。現在彼はESF社発行の「ペダゴジー(教育学)」叢書の主幹である。教師教育大学センター(IUFM)とカリキュラム全国議会の創立に携わった。1997年から1998年にかけて、「どのような知識を高校で教えるのか」と題された評議会ならびにシンポジウムの組織委員会の議長をつとめ、1998年から2000年までのあいだ国立教育研究所(INRP)の所長をつとめた。

彼はアルテ5*で26回にわたり放映されたシリーズ番組「教育の諸問題(偉大な教育者と教育法に関する重要な問題ならびに教育に関連する様々な業務をテーマとした)」の製作者である。

ドイツとの共同製作である国営放送のチャンネル。数あるチャンネルの中で最もアカデミックな内容を提供している。

Titres et distinctions
- Professeur d'universite en sciences de l'education - Universite Lumiere - Lyon 2
- Docteur Honoris causa de l'Universite Libre de Bruxelles
- Directeur de l'Institut des Sciences et Pratiques d'Education et de Formation (ISPEF)
- Membre du Conseil national des programmes
- Directeur de l'INRP
- Directeur de l'IUFM de l'Academie de Lyon


Principaux ouvrages publies
- Le Choix d'eduquer, ethique et pedagogie, ESF, Paris, 1994
- Emile, reviens vite.... ils sont devenus fous, avec Michel Develay, ESF, 1993
- La Pedagogie entre le dire et le faire, ou le courage des commencements, ESF, 1995
- L'Ecole ou la guerre civile, Plon, 1997
- Apprendre, oui, mais comment ?, ESF, 1999
- La Machine-Ecole, entretiens avec Stephanie Le Bars, Gallimard Folio, 2001
- Reperes pour un monde sans reperes, Descle de Brouwer, 2002
- Deux voix pour une ecole, avec Xavier Darcos, Descle de Brouwer, 2003
- Faire l'Ecole, faire la classe, ESF, 2004
- Le Monde n'est pas un jouet, Descle de Brouwer, 2004

『おそらくそこに根本的な点がある。現在学校の改革を困難にしていることがあ るとすれば、それはとりわけ教育制度が、フランス人がそれぞれ抱えるより私的 な問題(自分自身の子供達の将来)と同時に最も集団的で一般的な問題における 「共通の利益」といったこと(なぜなら国民全体の将来ということが俎上に上が るから)に関わってくるからなのだ。神聖で、国家に有機的に結びつけられてい る教育制度とそれぞれの市民に満足を与えなければならない公共サーヴィスとい う二重の問題である。さて、かつてこの二つの要求は両立可能だったのであり、 教育制度が描く共通で神話的な将来性の中に個人個人の関心が自然な形で回収さ れていたのだけれども、現在では、充分矛盾したものとなっている。』Philippe Meirieu